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やる気°
3/31
ついにやってきた。
この時を、何年間も待っていた。
2022年8月から始めたこのブログはすでに一周年を迎えた。
当初、ブログをはじめようなんてこれっぽっちも思っていなかった。
微塵もだ。
気力をいくら集めても壺一つ分の【ブログ欲】も集まる気がしない。
一限目。
夏の電車内はある種の楽園である。
自らの脚で地獄へと飛び出し、炎天下の中アスファルトの坂を上る。
照り返す日差しは残酷に、日陰すら焼いていた。
誰もいない教室。
高校の教室と比較して、優に3倍はあろうか。
汗で気持ちが悪い背中からリュックサックを下ろすことで、少なくともこれ以上眉間に皺を寄せずに済む。
始めに先ほど通ってきた扉近くの壁に向かう。
強ボタンを押すことで、私の一日が始まるのだ。
今日はその繰り返しの先にある日。
明日もまた今日の先にある。
明日から新生活が始まるというが、デジタル時計が【00:00】を示した時から大学生から社会人に入れ替わるわけではない。
濃密なほど折り重なっている私の主成分は大学生である。
下から積み上がる積み木の頂上に存在する大学生はいずれ崩れる。
積み木の塔の頂上は入れ替わる。
塔を中心にして広がった木片へと転がり落ちた大学生は、その一部の木目となり過去として埋め込まれる。
まだ社会人としての環境に放り込まれたことはない。
社会に放り込まれた途端に、私は社会人になるのだろうか。
周りはそう見るだろうが、私の中身は社会人のモノへと瞬時に入れ替わるわけではないのだ。
やってのけるのは二重人格者、もしくは思い切りのよすぎる人間だ。
したがって、【明日から社会人】という言葉は個人の人間性を示す言葉に相応しくない。
【明日から社会人】とは、いったい何なのか。
私は新生活という言葉は自分が変わるのではなく、自分の周りの環境が変わることを示すのだと考える。
他社が示す「社会人として――」という言葉の裏には、「社会人として生きていくのだから、それ相応の態度と心持を備えなさい」という戒めがあるのだ。
【明日から社会人】とは、周りがそう見るようになるという区切れの言葉である。
人生とは四季のようだと、まざまざと感じる。
【明日から社会人】という言葉を聞いて、幾度も覚悟をした人も居るはずだ。
しかし覚悟などいらない。
覚悟をしたところで何が変わるのだろうか。
季節が自然と移ろうように強制的に社会人になるのだから、考え込んで気負うほうが疲れるだろう。
なるようにしかならない。
ならばせめて、緊張はあるが後悔はないようにしたい。
CanChan, 終わり
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