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やる気°
記事の経緯
私は常にカメラを持ち歩いている。ふとした瞬間の情景を切り抜いて、写真として収めたいからだ。普段見慣れた散歩道で写真を撮ったとする。私はそれを振り返って何も思うことはないだろう。スナップ写真は恥を捨てて、その一瞬を切り抜かなければいけないのだろうかと疑問に思った。
街中を歩いているときに気が付いた
この記事の続きです。
今日もこのカメラと共に家を出ました。肩にぶら下げていつでも撮れるようにしていました。しかしファインダーをほぼ覗くことなく、時間ばかりが過ぎていきます。
ようやくシャッターボタンに指がかかったころには公園の中でした。
果たして、今までカメラをぶら下げていた意味があったのか疑問に思います。
私は街中スナップ写真というものを撮らない、撮ることができない人間です。そのことに気が付いたのは、やはり写真が保存されているフォルダの見た時です。青々とした景色と緑の多い写真に埋め尽くされていました。
街中で写真を撮りづらい。
恥ずかしがり屋であることに起因することは自明です。分かってしました。しかしあれだけやってきた動きができません。カメラを構えて、ピントを合わせて、適正な露出を探り、シャッターを切るだけの動作が途方もなく大きな壁としてプレッシャーに感じました。
上の画像は、露出不足、露出オーバーとなった写真です。一つ壁を取り壊すために、露出は無視して写真を撮ることにしました。
すぐにことを済ませようと、写真撮りにあるまじき行動だと思います。
けれども私はむしろ恥じるべき行動だったと、すぐに気が付くことができました。
公園の中なら、しゃがむこともできるし、人目があろうとファインダーを覗いていられました。
大分余裕をもって、構図を探すことができます。
やはり私は人間があまり好きではない。他人が怖いからこそ、街中という人口密集地帯で、人間ごと私の写真の中に収めたくないのでしょう。
「あっ、人間がいる」となって、写真を純粋な眼で見れなくなってしまうのです。
しかも恥ずかしがり屋なので、一期一会どころではないただの他人に、ファインダーを覗いている私を見られたくはありません。さりげなく撮ろうものなら盗撮を疑われそうで、嫌です。
以下、公園での写真の続きです。
だからこそあこがれる街中スナップ
さりげない写真とはなんとも言い難い空気を伴っています。プロはあの一瞬に適当なピント合わせと、露出調整を済ませて、詰まることなくことを済ませます。しかも、立ち止まって地に根を張り、ブレることなくです。
私はぶれます。その瞬間を逃します。
立ち止まってくれていたというのに、私がカメラを構えようかと悩んでしまったばかりに、ボケました。
真ん中に人間を置いて、構図など気にも留めず堂々と撮影したいものです。
そうなれるように、相も変わらずカメラをバッグに忍ばせることにしましょう。
撮影機材
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