いつも通りの朝。もう高く昇った太陽を一瞥した後、水を一杯あおる。
親戚の集まりを断ってからこの家には一人で、こうやって遅く起きても部屋は静かなままだった。
家族は俺が行かないと言っても「そう」と言うだけで、普通にさよならをした。
そっけなかったけど静かにうっすら汚くなりはじめてるこの部屋が親なりの愛情だったかもしれない。
十分ほど悩んで決めたカップ麺にお湯を注いで、待ってる間にテレビをつける。画面では偉そうな肩書のおじさんが政府や民衆を批判してる。
こんな時でも、こんな時だからこそ変えられないアイデンティティなのかも。
ばかげていると思う、が同時にありそうだと思った。
アルヴリエレが観測されてから二週間半たった。
観測や分析が進み、どうやら今日が極大日らしいことが分かった。それからはずっとこんな感じだ。皆好きなことをやり始めて治安は悪化したけど、なんだかんだ普通の生活できるくらいにはインフラは止まってないし、街に出ればたくさん働いてる人がいて社会をまわしてる。状況が変わってもルールは変わらないらしかった。
不思議だと思う、が同時にそんなもんだろうとも思う。
俺自身何も変わっていない。初めてニュースを聞いた日、行動や価値観みたいな何かを変えようだなんて考えなかった。
カップ麺を食べ終え、着替える。歯磨きをして、電気を消す。財布とスマホとイヤホン、最後に読みかけの本を一冊鞄に突っ込んだ。
「よし」
バイバイ。
何度も歩いた道を歩く。見慣れた景色を今日も目に焼き付ける。
音楽を聴くのも本を読むのも凄く好きだ。何回も心から泣いて価値観を動かされてきたなと思う。
仲のいい友達もいる。友達と喋るのは好きだ。よく深夜までぶらぶらと周り道していろんな話をしたっけ。家族についていく選択もあった。
でも最後の最後に選択するのが散歩なのは単純に合うからなんだろう。
俺の生はずっと一人で、こうやって好きな場所に行っていろんなものを眺めながらあれこれ考えるものだったと思う。それにちっぽけなプライドを持っていたし、そんなものなくてもこれはただやめられないことだった。
俺は俺らしく生きたくて、同時に俺としか生きられなかった。そういう意味では選んでいない。
俺は何かに突き動かされるように歩いた。突き動かされているはずなのに妙に自然に足が進んでいた。
インプットを忘れて上の空で歩いていたら、大きな自然公園の入り口についていた。
この公園はよく来た。特段何かがあるわけじゃないけどこの風景がどこか漠然と好きで、他に気になる場所がなければ散歩コースに組み込んでいた。かなり広く、公園というよりちょっとした山や森のような規模感だ。
ちっちゃい子供だった頃から視点も歩幅もおっきくなったが、今でも飲み込まれそうなほど大きく感じる。こんなに親しみを感じるのは慣れなんだろうな。
そう考えると懐かしいな。いろんな記憶が紐づいてるな。小さいころから好きだったから。
野鳥や植物を観察したり。小学校の自由研究はこの公園の生き物を調べて図鑑を作ったものだったかな。あれは頑張ればもう少し綺麗に組めた。
あとは台風の後に木が倒れてて怖かったり。枝が定期的に降ってくるんだよね。多分入っちゃダメだったんだろうな。
月明かりを頼りに夜に入っていって流星群を観察したこともあったかな。この場所は星がよく見えるから。ただ夜には森に入らない方がいいと思う。
感慨深い。生きてきたからかな。外からどう見えようと自分は頑張ってたと思う。そう思うから振り返ると感慨深くなってしまう。
公園に足を踏み入れる。またゆっくりと歩き始める。
この公園は森みたいに木が生えているため、公園らしい広場は街側のごく狭い一部分のみだ。後は道と緑で構成されている。公園を名乗るだけあって、七割方は綺麗に舗装されていて歩きやすい。
そんないつもはウォーキングをしている人たちに人気のコースも閑散としていた。というか人と建物で賑わっている駅の方も今日はなんだか人が少なかった気がする。
家にいるのもわかる。俺が歩いてるのもたまたまなんだ。
奥へ進んでいく。奥へ進んでいく。
少し進んだ道はこの公園の中でも人気がない。
この道は遠回りで車通りも少ない、だいぶ歩いてやっとバス停と申し訳程度の自販機がある、何もない道に繋がっているだけだ。基本引き返すことになるだろう。
ウォーキングが目的の人は他の歩きやすい道を選ぶし、自然観察が目的の人は水場などの鳥が集まるポイントがある道を選びがちだ。それに繁華街から離れていて足場が悪く山の中みたいな割には、高速道路が近く自然感も薄い。人は広場もある街側に集まる。
でも俺はこの道のそんなところが好きだった。
何もかもが遠いここで高速道路の壁が覗くところが。異質で遠い人工的な壁が。身近で居場所の人工的な壁が。俺と壁が相対するこの空間が。
どうせなら街を一望しようと坂を上っていく。
この公園に展望台はないけれど、計画はあったみたいで跡地みたいなものだけ残っている。くまなく歩いているときにふと全部が知りたくて、舗装された道を外れて獣道に入っていく時期があった。
僕はこの公園の獣道を、いわば緑の部分も含め制覇している。そんな獣道を通ると開けた場所にたどり着く。
獣道に入って数分も歩くと死が近くに来てる感覚がある。
人間が絶対的に有利な空間からそうでない場所に出てしまったかのような。本当はそんなことまったくないのにね。
最初に入った時は本当に怖かった。音や匂いまで全部の感覚に集中して慎重に歩いたものだ。
今は慣れてしまった森のさざめきの中を歩く。所詮公園で森の中を歩く時間は非常に短い。
視界が開ける。
目の前には、ビルが乱立する街ではもう感じれなくなってしまった、どこまでも広がっているような開けた空が。眼下には人が積み上げてきた町が。
この景色は世界が広いことや、自然が偉大なこと、人がその中でこんなにも頑張って積み上げてきたことをいろいろ学んだ。何よりも美しいものは、何よりも雄弁に俺に語り掛けてくるように感じる。
この景色も僕の短い人生をかけて眺めることに耐えうる景色だったんだ。とっくに俺の一部で、この景色を見せることが何よりの自己紹介になるだろう。
俺が何を感じてるかは伝わらないから実際はならないんだけどね。俺の受容体の説明はどうにも難しい。
何度も見たこの景色でまだ考察できるな。この世界のこと、自分のこと。
この街は生まれ育った街なわけだから当然俺の人生に結び付いてる。これだけ長い間関わってきた環境に左右されない人生なんてないし、同じようにかかわった分だけ俺の中での意味が変わってる。だから飽きない。いつだって俺は俺の考察対象だからね。
そう考えるとこの景色がきれいなのは俺のおかげと言っても過言ではないな。過言か。上半分の空については俺関係ないしな。でもほんといい景色だ。
あはは!俺の人生は明るかった!
俺はこの景色を目に焼き付ける。
ただ目の前の景色を眺めてぼうっとしていると日が落ちていく。街が赤く染められていく。
この時間は太陽がとても支配的だなと思う。建物の色が全部なくなって街が単色になってるみたい。この影響力の大きさこそが夕焼けの魅力だと思う。海とか、満点の星空とかと同じカテゴリの魅力だね。
自然が雄弁に語る時間は一日に二回訪れる。これは人間がどんなに街を発展させても同じだよ。自然を感じるのに山や海に行く必要なんてない。本当は毎日二回もチャンスがあるのに。目の前の景色も見えなくなったら終わりじゃないか。
まあ俺だから見える景色もあるだろうな。自分の目には誇りを持ってなくちゃね。
そんなことを考えていたら、気付くといつも通りだった空が赤く赤く、夕焼けのオレンジっぽい赤ではなくもっと赤い…
アルヴリエレが始まるんだな。
当たり前だけど初めてみる赤色だ。なんだか不安になるな。今まで見てた夕焼けもアルヴリエレを根源にした色だったのかな。違うか。初めて見る赤色だもんね。
でもそうか、さっき見てたのはいつもの夕焼けじゃなかったんだな。
全部の感情をごちゃまぜにして溢れ出させるような、それでいて全部置き去りにしていくような景色だ。
自然なんて当然人間の都合なんて考えてくれない、ましてや俺の都合なんて誰も何もかも。
もう長くないな。これも目に焼き付けないと。まさかアルヴリエレに立ち会うことになるなんてな。そんなこと思ってもみなかった。誰もそんなこと考えもしなかっただろう。
折角の機会なんだ。自分が何を思うのか俺は知りたい。
赤らんだ空が赤を超えて紫になる。
赤と紫って繋がっていったっけか。いやアルヴリエレがこうなら赤と紫は繋がっているんだろう。人間の尺度で偏見だったのだろう。それか俺の勘違いか。
ただ美しかった。あたたかい日差しもやわらかい風も。
俺の心がそういう感性だからとかそんなちゃちな話じゃないんだ。なにもかもがただそこに在って綺麗だった。俺もその中の一つだった。
そうだろう?でも少しだけ悲しくて寂しいのはきっと俺の欲のせいなんだろう。
綺麗な紫は徐々に彩度をあげていくように、何度も重ねて空を塗りつぶすように、まるで現実でなくなっていくようにその色を濃くしていき、自然界におおよそ存在しないようなどぎつい色に変わっていく。最後に
アルヴリエレがやってくる。
俺は最後に一、二滴だけ涙を流した。
ああ……
「きれい」
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